はじめに 私の家庭ではずっと犬を飼っており、私自身、犬のいない生活の経験がありません。子供の頃は獣医師か盲導犬の訓練士になりたいと考えていました。ところがまったくもって理数系がダメ。中学の頃から数学などはすでに落ちこぼれの域だったため、獣医師になるという夢は早々と諦めてしまいました。盲導犬の方は、子供の頃に読んだ盲導犬ユーザーの話に感動して以来でしたが、これは親の大反対その他、いろいろな不可抗力もあって諦めざるを得ないものでした。犬が好きで、何か犬に関わることをしたいという願いをずっと抱いていた私は、仕事の合間にトリミング学校に通い始めました。それが私とプードルとの最初の出会いです。 ところが正直な話、当時私のプードルという犬に対するイメージは、あまりいいものではありませんでした。このちびっこいくせにお高く澄ましたような風貌のトイ・プードルという犬が実は大キライで、学校に通っていてもなんとなく好きになれずにいたのです。しかしながら技術をしっかり覚えたるには自分でプードルを持っている方が良いようだ、と考えトイ・プードルを飼うことにしました。
無謀にもアディと、アディの後はティティという別のトイ・プードルとで数年、展覧会に出ていました。この頃、アディの親元であったブリーダーでハンドラーのM氏には何かと教えてもらったり世話になったことがあります。M氏のところにはアメリカから来た美しいスタンダード・プードルがいました。彼は「本気でプードルをやるつもりならスタンダード・プードルをやれ」とよく言ったものです。とは言え、体格があれだけ違うスタンダード。私にとっては手入れをやり切れるかどうかが最大の難関でした。また、以前ボクサーを飼っていた経験から、体格の大きな犬の運動が大変なこともわかっていました。体格の大きな犬と暮らすということは、しつけの点でも気をつけなければならず、それらの大変さを思うとわかっているだけに簡単に「はい、そうですか」とスタンダードに手を出すなどということはとてもできませんでした。 「ロクな犬がいないからやめな」と私に言い続けていたK夫妻の意見はある意味、正しい部分もありました。日本ではスタンダード・プードルの数がとても少ないのです。私が欲しい、欲しいと言ってた時は今より更に少なく、展覧会などで見て探しても私自身が納得できる犬がほとんどいない、と感じることが多くありました。昔、私にスタンダード・プードルを飼えと言っていたM氏も、当時はプードルの繁殖も止めてしまっていたし、もとより音信不通でした。数の少ない日本で探すことに限界を感じた私は、アメリカからまず情報を取り寄せようと思い立ちます。 そんなある日、毎度「スタンダードなんてやめなさい」と言っていたKさんから電話をもらいました。「ねぇ、スタンダード・プードルをくれるって人がいるんだけど。」
当時はバブルがはじけて日本中が昨日までのウカレ調子はどこへやら、少しずつ強くなりそうな不景気風におびえ始めた頃でした。話を聞くと、パピーまで展覧会に出していたものの、事業に失敗したオーナーが経費がかかるので犬を手放したい、タダでいいから誰かかわいがってくれる人にもらってほしい、ということのようでした。 思わぬ出会いはこれだけではありませんでした。ほどなくして届いた菜々子の血統書を見て、私は本当に驚いたのです。菜々子の母方の血統は、私にスタンダードを勧めたM氏の所にいたスタンダードの直系でした。また、私が惚れ込んでしまってもう一歩で電話をかけようとしていた例のアメリカのブリーダーの基礎犬達の血統とも非常に近いこと(先祖犬がほぼ同じ血統)がわかりました。見えない何かが語りかけたのか、きっとそれぞれ何かの縁があったのだと思います。 (1999-7) リアン 2001年6月、長い時間を経て、ようやく私は最初にここの犬が欲しいと思ったアメリカのブリーダーからリアンを連れて帰って来ることができました。リアンを迎えるまでには色々な意味で時間が必要でしたし、ずっと待って時間をかけたことは無駄ではなかったと確信しています。 リアンが来る前から、ブリーダーに出していた絶対条件は「どこに連れて出てもスタンダード・プードルとして恥ずかしくない子であること」「心身共に健全であること」この二つでした。それと、ブラックではなくクリームというのがもう一つの希望でした。(本音では他に希望を並べたらキリがありません/笑)ブリーダーから出された条件は「アメリカでもショーに出すこと」でしたが、これは「できれば」という話であって、絶対条件ではありませんでした。 (2004-6) |