はじめに

 私の家庭ではずっと犬を飼っており、私自身、犬のいない生活の経験がありません。子供の頃は獣医師か盲導犬の訓練士になりたいと考えていました。ところがまったくもって理数系がダメ。中学の頃から数学などはすでに落ちこぼれの域だったため、獣医師になるという夢は早々と諦めてしまいました。盲導犬の方は、子供の頃に読んだ盲導犬ユーザーの話に感動して以来でしたが、これは親の大反対その他、いろいろな不可抗力もあって諦めざるを得ないものでした。犬が好きで、何か犬に関わることをしたいという願いをずっと抱いていた私は、仕事の合間にトリミング学校に通い始めました。それが私とプードルとの最初の出会いです。

 ところが正直な話、当時私のプードルという犬に対するイメージは、あまりいいものではありませんでした。このちびっこいくせにお高く澄ましたような風貌のトイ・プードルという犬が実は大キライで、学校に通っていてもなんとなく好きになれずにいたのです。しかしながら技術をしっかり覚えたるには自分でプードルを持っている方が良いようだ、と考えトイ・プードルを飼うことにしました。
 当時、近所の知合いが展覧会にシーズーを連れて出ていたこともあり、その人の紹介で3カ月になるかならないかという小さな仔犬を手に入れたのです。それがアディでした。チャラチャラした、それこそ「オモチャ」にしかならないトイ・プードル、と思っていたのが見ると飼う(一緒に暮らす)とは大違い。それ以来、私はプードルにハマって私のプードル・フリーク人生のスタートになったのです。


スタンダード・プードルの夢

 無謀にもアディと、アディの後はティティという別のトイ・プードルとで数年、展覧会に出ていました。この頃、アディの親元であったブリーダーでハンドラーのM氏には何かと教えてもらったり世話になったことがあります。M氏のところにはアメリカから来た美しいスタンダード・プードルがいました。彼は「本気でプードルをやるつもりならスタンダード・プードルをやれ」とよく言ったものです。とは言え、体格があれだけ違うスタンダード。私にとっては手入れをやり切れるかどうかが最大の難関でした。また、以前ボクサーを飼っていた経験から、体格の大きな犬の運動が大変なこともわかっていました。体格の大きな犬と暮らすということは、しつけの点でも気をつけなければならず、それらの大変さを思うとわかっているだけに簡単に「はい、そうですか」とスタンダードに手を出すなどということはとてもできませんでした。
 それでもプードルの「基本」となる非常に美しく賢い犬。一度はいずれ手がけてみたい、と強くその時以来思うようになっていました。アディの時以来の付き合いとなっているシーズーのKさん夫妻には事あるごとに「スタンダード・プードルが欲しい」「どこかでいい仔犬がいそうだったら教えて」「できたら探して」と話をしていたのですが、K夫妻はその都度「スタンダード・プードルなんてやめなさい」「どうせロクな犬がいないのに、なんだかんだ高く売りつけられるのがオチ」と言われるばかりでした。
 それから数年後、結婚をはじめとした生活や仕事の変化、引越しなどなど身辺が慌ただしくなり展覧会からも遠ざかることが多くなります。忙しい日々の中で、それこそ新たに大きなスタンダードなど飼える状況でもなく、欲しいな、欲しいな、と時折思い出す程度だったのです。

 「ロクな犬がいないからやめな」と私に言い続けていたK夫妻の意見はある意味、正しい部分もありました。日本ではスタンダード・プードルの数がとても少ないのです。私が欲しい、欲しいと言ってた時は今より更に少なく、展覧会などで見て探しても私自身が納得できる犬がほとんどいない、と感じることが多くありました。昔、私にスタンダード・プードルを飼えと言っていたM氏も、当時はプードルの繁殖も止めてしまっていたし、もとより音信不通でした。数の少ない日本で探すことに限界を感じた私は、アメリカからまず情報を取り寄せようと思い立ちます。
 今から11年ほど前のある晩、古いプードル雑誌をツテに編集者に国際電話をかけ、アメリカのプードル雑誌の定期購読を始めました。ほどなくして届いた雑誌を何気なく見ていた時、理由もなくただただ直感で気に入ってしまった犬達の写真がありました。犬の良し悪しは写真だけでは判断できません。写真で見るのと実際に目の前で動いている犬を見るのとでははっきり違います。けれどこの時は、とにかく第一印象だけでとてもそこの犬が気に入ってしまい、まさしく一目ぼれ。しばらく継続的にそこの犬舎の犬達の写真を雑誌で見ていて、ますます気に入って、私はついにそこのブリーダーに電話をしてみようと決心を固めました。なんとかこちらの思いをわかってもらって、できたら仔犬を譲ってもらえないか、と話をしてみるつもりだったのです。

 そんなある日、毎度「スタンダードなんてやめなさい」と言っていたKさんから電話をもらいました。「ねぇ、スタンダード・プードルをくれるって人がいるんだけど。」


菜々子との出会いと不思議な縁

 当時はバブルがはじけて日本中が昨日までのウカレ調子はどこへやら、少しずつ強くなりそうな不景気風におびえ始めた頃でした。話を聞くと、パピーまで展覧会に出していたものの、事業に失敗したオーナーが経費がかかるので犬を手放したい、タダでいいから誰かかわいがってくれる人にもらってほしい、ということのようでした。
 私は電話をもらうとそれこそ二つ返事で、翌週にはハンドラーの所に行き、そのまま車にスタンダード・プードルを積んで帰って来たのです。
 1992年3月20日、こうして思わぬところから菜々子が我が家に転がりこんできました。

 思わぬ出会いはこれだけではありませんでした。ほどなくして届いた菜々子の血統書を見て、私は本当に驚いたのです。菜々子の母方の血統は、私にスタンダードを勧めたM氏の所にいたスタンダードの直系でした。また、私が惚れ込んでしまってもう一歩で電話をかけようとしていた例のアメリカのブリーダーの基礎犬達の血統とも非常に近いこと(先祖犬がほぼ同じ血統)がわかりました。見えない何かが語りかけたのか、きっとそれぞれ何かの縁があったのだと思います。
 ちなみに、あの時に連絡をしそこねてしまったアメリカのブリーダーは、その数年後、アメリカに出かけた際にこちらからコンタクトを取り、それ以来お付き合いさせてもらっています。

(1999-7)

リアン

 2001年6月、長い時間を経て、ようやく私は最初にここの犬が欲しいと思ったアメリカのブリーダーからリアンを連れて帰って来ることができました。リアンを迎えるまでには色々な意味で時間が必要でしたし、ずっと待って時間をかけたことは無駄ではなかったと確信しています。

 リアンが来る前から、ブリーダーに出していた絶対条件は「どこに連れて出てもスタンダード・プードルとして恥ずかしくない子であること」「心身共に健全であること」この二つでした。それと、ブラックではなくクリームというのがもう一つの希望でした。(本音では他に希望を並べたらキリがありません/笑)ブリーダーから出された条件は「アメリカでもショーに出すこと」でしたが、これは「できれば」という話であって、絶対条件ではありませんでした。
 こちらからの「絶対条件」と言っても、パーフェクトな犬はいませんし、長い付きあいの中でブリーダーのことは信頼していますから、連れて来て何がその先にあっても、それでどうこうという気は全くありません。菜々子にしろ、リアンにしろ、偶然とは言え私にとっては本当にラッキーな出会いが多いことだけは確かで、今までのことを振り返って見ても、恵まれていたなぁと感じています。

(2004-6)

我が家のプードル達

アディティティコニー菜々子LeanneJanisindexに戻る